理事長交代式

恒例のビアパーティーの中で理事長交代式が行われ、内村理事長は会長に私が理事長になりました。会長の挨拶に続いて、以下ようにスピーチしました。
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(スピーチ原稿)この度、医療法人明輝会理事長という責任ある立場を前理事長よりバトンタッチされ、たいへん身の引き締まる思いをしております。明輝会グループは医療と介護のサービスを地域に展開し、その職員数は、現在357人という大所帯です。
前理事長の内村隼人先生は1975年、昭和50年に内村内科を、鹿児島市川上町に開院されました。開院後、次々と、医療と介護の新しいノウハウを取り入れて現在に至っています。
たとえば、今では当たり前の医薬分業です。1979年当時、院外で薬をもらうというシステムは、とても珍しく、当時の患者さんたちは、戸惑ったのかもしれません。しかし、このシステムは今はもう当たり前になっています。また、介護保険制度がスタートした2000年よりも3年前の1997年に、訪問診療や訪問看護に取り組まれ、よしの訪問看護ステーションを開設されました。在宅医療において訪問看護師の役割が非常に重要であることは、今では、共通認識ですが、このことにいち早く気付かれ、訪問看護ステーションを開設されたことには、敬意を表するものです。また、認知症に対する取り組みもとても早いでした。グループホームよしの村の開設は、1999年で、鹿児島市第1号のグループホームだったと伺っています。
現在、明輝会は、内村川上内科と、ろうけん青空を中心に、医療と介護の両輪で地域サービスを提供しています。これ以外にも訪問看護ステーション、ヘルパーステーション、グループホーム、デイケア・デイサービス、小規模多機能ホーム、居宅介護事業所などを有し、明輝会は、全国から注目される医療と介護のミニ複合体を形成しています。
さて、私は5月のある日に内村隼人先生から一冊の本を渡され、次の理事長の指名を受けました。その一冊の本とは、明治大正時代を代表する文豪「幸田露伴」の書いた「努力論」という本です。(スライド1枚目)この本の帯には、「運命は自分で切り開ける。のびのびと努力せよ!」と書かれていました。
前半には、人としての生き方、心の持ち方について、具体例を上げて、わかりやすく書かれていました。後半では、自分の能力や人の能力を伸ばす方法、あるいは、事業を発展させる方法が書かれており、最後は、「人間関係を築く」というテーマで終わっていました。「事業」について書かれているところが、経営のことに真面目に取り組んでこなかった私には、実に新鮮でした。「事業で大切なのは継続性と信用である」と大きく書いてありました。この言葉は、わりと移り気な私の性格を見透かした戒めのように聞こえました。
幸田露伴は、くり返し「人を信じろ」と言っています。「人を信じることは一種の苦行だ」とも言っています。「人を信じて災難にあってもいい」とまで言い切っています。この本は、とても勉強になり、これから先の私の座右の銘として、利用していきたいと思います。
最後に、医療法人明輝会の運営方針について話します。前理事長がホームページに書かれている言葉をそのまま引用すると、思いやりの心と愛に満ちた心で地域と共生していくということです。つまり、医療と介護を通じて地域に奉仕するということです。そして、私は優秀な明輝会幹部の人たちと、明輝会という大きな船を動かしていきたいと思います。
(スライド2枚目)この1枚の写真は、1985年のニューズウィーク誌に掲載されたものです。写真中央の人物は、アップルの創業者である故スティーブ・ジョブズです。ジョブズは2011年、56才の若さで膵臓癌のため亡くなりましたが、30才のとき、自分が作った会社アップルを追放されるという苦い過去があります。やがて42才になって、アップルに復帰するのですが、その間、新たにコンピュータ会社を作り、優秀なエンジニアを集め、自分が理想とするコンピュータを作り上げました。そのコンピュータを動かすオペレーティングシステムこそ、アイフォーン、アイパッド、そしてマックを動かしているオペレーティングシステムのプロトタイプなのです。この写真は、その時の会議中の一場面です。実に、この雰囲気、このスタイルが私は好きです。私の理想とするものです。
私にも明輝会のすばらしい人たちと会議している写真があります。(スライド3枚目)
明輝会グループのみなさん、私と共に明輝会という大きな船に乗って、医療と介護という大海を進んでいきましょう。これで、私の理事長就任の挨拶を終わります。どうもご静聴ありがとうございました。   平成26年7月4日 川上秀一

 

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